[参考資料]路地裏の大英帝国

私がヴィクトリア朝の生活を詳しく知ろうと思った2000年当時に出会った、日本人が書いた書籍では最も労働者階級の都市生活を詳しく描いた資料本です。研究者の方たちはこの道の第一人者の方ばかりで、この本が生まれた背景はイギリスの歴史研究を学ぶ上で、有意義な価値を持ちます。

あとがき

イギリス人は日常生活のレベルで、何を食べ、何を身につけ、何を考えてきたのか。イギリス史研究の成果は汗牛充棟ただならぬものがあるのに、このような問題にはほとんど答えが用意されていない。これまで経済史や政治史の研究に従ってきたわれわれが、「生活社会史」をめざして研究を始めたのは、こうした反省からである。ときに一九七七年六月のことである。
『路地裏の大英帝国』平凡社・1983年版:P.245より引用

このあとがきが示すように、当時は個人生活の部分は研究として非常に弱かったようで、多方面の研究者が専門領域を軸に、生活を描き出す様々なテーマを扱ったのが本書です。その意義は大きく、この本は19世紀英国を学ぶ上で必須の一冊といえます。また、メイドやこの時代に関心を持つ方は一度は必ず目を通し、私が2001年に同人誌1巻を描いた際に友人の藤好さんが寄稿してくれた『ヴィクトリア朝コミックレビュー』で扱った、『天使の棲む部屋』(『彼氏彼女の事情』の著者・津田雅美さんの作品)では、この本を参考文献にあげています。

1:都市文化の誕生
2:家庭と消費生活
3:白いパンと一杯の紅茶 庶民の食べ物
4:病気の社会史 工業化と伝染病
5:いざというときに備えて 保険金用事連続殺人事件
6:ヴィクトリア時代の家事使用人
7:地方都市の生活環境
8:リゾートとレジャー
9:パブと飲酒
あとがき
参考文献

日本の出版界(和書)にメイドの情報が不足していた頃、この『6:ヴィクトリア時代の家事使用人』は非常に重要視されました。内容的にも「昔は主人たちの服を着せられていた」「身分が同じに見えて、制服が必要になる」「雇う階級の増加により、雇う側とメイドさんの身分が近づき、明確に区別する必要がある」などの論拠が出ています。

以下、本の内容とあまり関係ないのですが、この第六章は自分の研究の原点の一つです。第六章の多くの内容は、1970年代に刊行された英書『THE RISE AND FALL OF VICTORIAN SERVANT』(和書として翻訳された『ヴィクトリアン・サーヴァント』の刊行は2005年)の要約に近いレベルです。英国で本格的な使用人研究が始まったのは、私の認識では1970年代、それも完成度の高い総合書が1970年代刊行の『THE RISE AND FALL OF VICTORIAN SERVANT』であることから、これ以外に家事使用人を扱った資料がないような時代でした。

とはいえ、2002年に英書『THE RISE AND FALL OF VICTORIAN SERVANT』を読んだ私は、第六章の情報がオリジナルだと思っていたので、驚きました。もちろん、英書に含まれていない情報も和書にはありましたが、「それはないよ」と感じました。どこからどこまでがオリジナルなのか、分かりませんでした。

同時に、この章から、日本におけるメイドや使用人研究のレベルは、英書さえ読めれば、学者も個人も関係が無いと感じました。この時の経験から、私はなるべく「参考文献」を明示することを意識し、自分の立場は研究者でありつつ、あくまでも「紹介者」であって、個人でオリジナルの視点を構築し得る学者ではないと感じた契機になりました。それならば自分がこの分野を調べる余地は大きい、と思いました。

この感情は既に8年以上前の出来事で、今考えると、非常に早い段階で当時の最新研究を取り入れ、誰もが分かりやすい形で提供した功績は素晴らしいと思います。何しろ、この第六章が存在しなければ、家事使用人研究は別の形をとっていたか、少なくとも日本で「メイドとヴィクトリア朝」のイメージは連結しなかったかもしれません。

さらに、巻末の参考文献一覧は、実際に私が参考にしました。この本やそれ以外に参考書籍として載っていた『THE RISE AND FALL OF VICTORIAN SERVANT』に接することは、私が同人活動を続ける上で貴重な財産となりました。当時、この本まで手を伸ばしている人は少なく、オリジナルの知識が多くありました。さらに、「そうか、和書の参考文献からこの本を買ったけど、この本の参考文献はなんだろう」と、以降に繋がる参考文献のループに陥り、ほとんど英書しか買わなくなりました。

和書の参考文献は誰かにとってのスタートになります。

第六章の話で盛り上がってしまいましたが、それ以外の章は私にとって知らない情報ばかりで、都市に住む生活者の貧困と紙一重の生活を数字資料や具体的なエピソードで物語ってくれています。もしもヴィクトリア朝に興味を持つならば、揃えておいて損のない一冊ですが、知識がゼロの段階ならば、『エマ ヴィクトリアンガイド』や『図説 ヴィクトリア朝百貨事典』などで、多少明るい要素や分かりやすいイメージを掴んでからの方が楽しめると思います。

本書を記したメンバーの中心となっている方々による『産業革命と民衆』も同様の視点で構築されており、より時代背景をつかめる内容となっているので(『路地裏の大英帝国』は個々のテーマ性が強く、通史としての全体像をイメージさせる目的で作っていない)、『路地裏の大英帝国』を読む前ならば、むしろ、こちらの『産業革命と民衆』を絶賛オススメします。