この本は非常に特殊です。読んでいて、「ヴィクトリア朝当時の犯罪マニュアルじゃないの?」と思えるほど詳細に、犯罪や強盗、屋敷へ潜入するプロセスやスリの方法・手口が記されています。
最も近しいイメージは、英国の文豪ディケンズの『オリバー・ツイスト』でしょうか。あの作品は少年がスラムの犯罪組織(小規模ですが適切な言葉が浮かばない)に所属し、窃盗や強盗の手引をさせられる話ですが、あの話を現実に落とし込むとこうなる、というような手口のオンパレードです。
映画にもなった実在の『大列車強盗』(金塊強奪事件)をきちんと取り上げているのはこの本だけでしょうか? 映画ではハッピーエンドというか、曖昧な終わり方ですが、現実はシビアでした。また、強盗が、使用人に手引きをさせる(日本の押し込み強盗のように)という描写もあり、それは使用人を扱った英書で取り上げられていました。
他に使用人関連では、屋敷の領地にしのびこんで銃猟(シューティング)の獲物を盗む密猟者と、猟場を守るゲームキーパーの戦いの話が少しだけ含まれています。これは盗みが問題になるだけではなく、そもそも「資格がない人の狩猟が禁じられている」法律による取り締まりです。地主といった有資格者やライセンス保持者(ゲームキーパー)以外は対象となるゲーム(猟の鳥やウサギ)を撃ったり、殺すことが禁じられていたのです。取引もライセンスを持つ業者に制限されましたが、闇取引は止みませんし、肉を必要とする貧しい労働者階級の人々にとって密猟は生活に必要なものでした。(この辺りの話は商業版『英国メイドの世界』のゲームキーパーで扱います)
いずれにせよ、この本は下層社会の雰囲気、重苦しい暗部を克明に描き出しており、読んでいて気持ちがいい本ではありませんでしたが、そういった世界を実際に生きていた人がいるのを知る意味では、貴重でユニークな本です。また、本当の下層社会(アンダーグラウンド寄り)であって、必ずしも労働者階級全体の生活を代弁していません。それでも、何か人生の選択を間違えると簡単にこの世界に転がり落ちる、それだけ貧困が近しい時代だったことは間違いありません。
この本を読むならば、小説では同時代人ディケンズによる『オリバー・ツイスト』や、日本でも評価の高いミステリ作家サラ・ウォーターズによる『荊の城』(スラムのスリの少女が侍女となって屋敷に潜り込む)がおススメです。他に、犯罪系では『五輪の薔薇』という話がありますが、自分にはカタルシスがなかったので相性があると思います。
この系統で犯罪よりではなく、それでいて労働者階級の生活や雰囲気を描いた資料本としては、同時代人による『ロンドン路地裏の生活誌』『どん底の人々』、日本人による最も総合的な都市生活研究書『路地裏の大英帝国』と、より産業革命を含めた生活史全体が見渡せる『産業革命と民衆』が適しています。