ヴィクトリア朝に興味があり、産業革命や大英帝国がどのように成立したかを知ろうと思うならば、ゼロからでも楽しめるのが本書です。本当にただ一冊、ヴィクトリア朝の詳しい生活資料を推薦するとなれば、コストパフォーマンスと内容のレベルと面白さでは、この本を選びます。『路地裏の大英帝国』の中心メンバーの方々で、私が思うイギリス史の中心的存在「角山栄先生・村岡健次先生・川北稔先生」の三名による、素晴らしい一冊です。
この本は「生活の歴史」シリーズの一冊で、他に様々な時代(たとえば古代ローマや中世)を扱った書籍も刊行されています。私は学生時代はTRPGをやっていたので、舞台設定や雰囲気を学ぶ上で、この「生活の歴史」シリーズを愛読していました。姉妹作の『中世の森の中で』は面白かったです。
余談はさておき、本書はなぜイギリスで産業革命が生じたのか、産業革命とはそもそも何かの解説から始まり、国が豊かになっていくプロセス(17世紀の交易+商品経済→18世紀の植民地支配や産業革命→19世紀の産業振興や格差社会・日常生活)を分かりやすく描いてくれています。
私が個人的に好きなのは「石炭」の話です。イギリスは日本ほど雨が多くなく、森林の回復力は高くありません。それが16-17世紀の商工業の発展による燃料としての伐採や、海軍の軍艦製造などの資材に使われたことで、材木が不足しました。その結果、イギリスは石炭を家庭燃料に使い始めます。
石炭を燃やすと臭いと煙が出るので、家屋の構造は囲炉裏から暖炉へと切り替わっていきました。また、石炭を大量の掘り出して燃料に使う際、鉱山内で湧き出してくる水を排出する動力として馬を使っていたところを蒸気機関に切り替え、産業革命の動力が生まれます。製鉄でも良質の鋳造工法が開発され、イギリスは世界の工場への道を歩み始めました。さらに、そもそも石炭を大量に運ぶにはどうすればいいのかを検討した結果、馬車や運河、鉄道といった大量輸送への道筋が開かれて行きました。(運搬物には穀物も含まれましたが)話すと長くなりますが、これだけでも十分楽しい話です。(『産業革命と民衆』P.25-45)
本書も、『路地裏の大英帝国』同様、生活史への研究の始まりが記されています。
あとがき
正直なところ、本書の執筆には多くの苦労をした。歴史家ならば誰だって生活史を書いてみたいという夢を持ち合わせているだろう。だから出版社から生活史執筆の話があったとき、日ごろの夢がかなえられる機会が与えられたことに感謝した。しかも私自身イギリス経済史を専攻していて、経済史の研究動向に何か充たされないものを感じていたところであった。元来経済史時の対象領域は人間の経済生活の歴史にあるはずである。しかし戦後わが国の経済史学界は、経済史の理論というか、「世界史の基本法則」に主要な関心が集中していた。当時にあっては、農民層分解、絶対主義、マニュファクチャ、市民革命、重商主義といった歴史用語のソフィストケイトされた解釈論争がさかんに行われていた。理論と解釈をめぐる論争がさかんになるにつれ、論争の網にかからない人間の経済生活の諸局面は次第に重要視されなくなった。(中略)
(中略)昭和五〇年一月二〇日 角山栄
『産業革命と民衆』河出書房新社・1997年版:P.332より引用
新装版あとがき
歴史をつくるのは民衆であるといわれている。しかし民衆はいつも民衆運動ばかりやっているわけではない。政治がどう変わろうとも、毎日「働く」「食べる」「飲む」「住む」「着る」「遊ぶ」などといった、平凡な日常のいとなみに追われているのがふつうの庶民生活である。こうした歴史に名前を残すことのない庶民生活は、それだけに資料が乏しく、長いあいだ歴史家から取り残されてきた。
(中略)昭和五五年二月 角山栄『産業革命と民衆』河出書房新社・1997年版:P.337より引用
この言葉は私にとっても、大きく響くものです。興味深いことに、この20年後ぐらいにヴィクトリア朝を調べた私にとっては、日本の資料は「都市生活者」や「工場労働者」の生活や貧困に集まっている気がしました。確かに大変だったのは伝わってくるし、それは歴史的な事実です。
しかし、家事使用人たちは同じ労働者でありながら、文脈からは抜け落ちているように見えました。彼らが語られるのは、「中流階級の顕示的消費」の手段としてであって、彼らの個人生活や生き方はどうなっていたのか、見えませんでした。また、上流階級や中流階級の日々の暮らしが、それほど扱われていないように思いました。家事使用人は、日常生活・家事を担当する役目を負ったので、彼らを扱うことは日々の生活を照らしだすことになる、私はそう思っています。
その点で、私の視点は、「日本でメジャーに思える、都市生活者や労働者」を扱った資料へのカウンターという少数の立場であり、扱っていない領域を補おうと意図した方向で考えていました。ヴィクトリア朝のメイドに興味を持つ人はそもそも、和書を読んでいて、その上で物足りない人ばかりだろうと、以前は考えていました。それに、研究当初はホームズの系譜の犯罪小説や、ドレやパンチの描く世界、退廃、売春といったショッキングさや好奇心を引く分野が目立つように思いました。
しかし、自分のスタンスとしてシンパシーを感じる『エマ』や『Under the Rose』に代表される作品が増えると、どうも、「ヴィクトリア朝は貧しい労働者が大半を占める現実(19世紀半ばの世帯収入調査で約80%が労働者、15%が中流階級、5%以下が上流階級)」という文脈が、少なくとも私の書く同人誌の読者の中で共有されていないのではと、ある方の指摘を受けました。また、私自身がそうでしたが、英国の「中流階級」と、「一億総中流」と語られることがあった日本人の認識する中流階級とは、言葉は同じでも相対的な社会の中での位置づけが、全く異なるのです。
いずれにせよ、その点で本書は労働者階級だけではなく、その対比となる中流階級・上流階級の生活を均等に扱っており、『路地裏の大英帝国』よりも全体像が認識しやすい構造になっています。
話が長くなりましたが、英国を政治事件・歴史事件でみるのではなく、生活(衣食住・消費)の観点で見る本書の目次を掲載します。小見出しをすべて載せる価値があるぐらいに面白いのですが、大変なので一部だけにしておきます。
1:プロローグ
2:現代社会の夜明け
3:コーヒー文化の誕生――生活様式の国際化1
4:多彩化する生活――生活様式の国際化25:人口過密・異臭・貧困――都市の生活環境
人口急増す
人口抑制のメカニズム
生態学的均衡の崩壊
なぜ人口が増えたか
汚臭たちこめる労働者の街
排水と下水
トイレ
異臭を放つテムズ河――給水の問題
洗濯の水に窮す
入浴はブルジョワの特権
平均寿命は一五歳
チフスの蔓延
職業病――肺結核
むずかる児には「乳児酒」を!
諸悪の根源な貧困にあり6:庶民の哀歌
7:食事・娯楽・旅行――庶民生活の向上
一日の始まり
料理の献立
ベーコン、ウサギパイ、プディング
週給制度の定着
労働者の家計簿
家計費に占める食費の割合
教育熱の高まり
休日の過し方――読書と瞑想
すたれる大衆娯楽
レジャー産業の出現
エキスポ ― 一八五一
万国博のもたらしたもの
ディスカヴァ・ロンドン
世界初の団体旅行8:虚栄の市――上流・中流階級の生活
あとがき
参考文献