[コラム]屋敷に仕えた執事に求められた4つの能力

本テキストは『日の名残』、或いは「上級使用人・執事」補遺として2007年02月11日にブログで公開し、その後、同人版『英国メイドの世界』(2008年)にアレンジして掲載、そして講談社版『英国メイドの世界』(2010年)に掲載を予定していたものです。

小説『日の名残り』をベースとして執事に求められる能力を論じたものですが、小説をベースに作品論的に偏っていることが資料本の性質にそぐわず、また「著者の独自見解」も含まれているので、出版時にはお蔵入りしました。

折角なので書き直しを行い、ウェブにて公開します。


■目次

  • はじめに
  • 執事に必要な能力 その1.計画能力
  • 執事に必要な能力 その2.業務遂行能力
  • 執事に必要な能力 その3.品格、あるいは規律(Self-discipline)
  • 執事に必要な能力 その4.人材マネジメント
  • まとめ

■はじめに

執事に関する最高の小説、カズオ・イシグロの『日の名残り』。この小説は執事スティーブンスの一人称で記され、「偉大な執事に欠かせない要素とは何か?」「執事としての生き方に必要な物は?」などを執事が自問自答し、自身の人生から答えを見出していく興味深い洞察であふれています。

本テキストではスティーブンスが執事に必要な能力としてあげた「計画能力」「業務遂行能力」「品格」を軸に、実在した英国執事の能力や見解を交えながら、『日の名残り』ではあまり触れられていない「人材マネジメント」に言及し、「一流の執事」に求められた能力を考察します。

文中で引用する主なテキスト

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■執事に必要な能力 その1.計画能力

執事は主人から課せられた課題を、屋敷の資源を動員して実現しました。「誰に」「いつ」「どんな仕事をさせるか」を決めるのが執事です。管理者として執事は「業務の定義」を行いました。

この業務定義の観点を与えてくれたのが『日の名残り』です。主役の執事スティーブンスは、何かに触れて「計画」という言葉を用います。かつての主人・英国貴族ダーリントン卿が屋敷を手放し、数多くの使用人が屋敷を去った後、スティーブンスはこれまで犯さなかったような様々なミスをします。そのミスが生じた原因を、彼は次のように振り返ります。

『一連の過ちの原因は職務計画に不備にあって、それ以外のなにものにもない――これでございました。
 いやしくも執事たるもの、職務計画の作成には、慎重のうえにも慎重を期さねばなりません。いいかげんな計画のために、これまでどれだけ多くの争いが起こり、過てる非難が交わされ、不必要な解雇が行われ、惜しい人材が失われていったことでしょう。
 すぐれた職務計画の作成こそ一人前の執事の証明である――その意見に私も全面的に賛成いたします。私自身、これまで多くの計画を作成してまいりましたが、あとで変更を余儀なくされるようなものは、まず作ったおぼえがありません。これはあながち私のひとりよがりではないと存じます』

『日の名残り』P.10より引用

職務計画とはすなわち、適切なマネジメントです。マネジメントとは与えられた権限を行使して、資源や人材を適切に管理して、職務を遂行することです。現代に通じるマネジメントが執事の世界にもあった、その観点に気づいたとき、家事使用人の歴史を扱う書籍でも素晴らしい言葉に出会いました。

『どんな世帯でも統制することが[執事の]任務である。とりわけ大世帯では、この思慮分別ある権力の行使が大いに必要とされるであろう。というのは、だらしのない管理のもとでは、下級使用人たちは決して居心地もよくないし、まして幸福でもないから』

『ヴィクトリアン・サーヴァント』P.126より引用

マネジメント不在の現場は、不幸です。執事は適切に権限を行使し、働きやすい環境を作る責務を負いました。大きな屋敷ともなれば仕事の量と種類が多く、分業化が進んでいました。執事個人が自分の手ですべて行うのは不可能であればこそ、業務配分を行い、管理職たる執事は「誰に、何をやらせるか」を決める必要がありました。


■執事に必要な能力 その2.業務遂行能力

完璧な計画も、実行されなければ意味がありません。その点では執事には「立案」だけではなく、現場の陣頭指揮官としての「遂行能力」が求められました。執事スティーブンスは自分自身を「将軍」に例えます。

『こうして、私は来たるべき数日間の準備に全力を傾けました。将軍が作戦を練るというのも、こんなものではありますまいか。まず、起こりうるあらゆる事態を想定し、細心の注意を払って特別の職務計画を作り上げました。
 私どもの最大の弱点がどこにあるかを分析し、その弱点が突破されたときのために、幾通りかの緊急避難的な計画も作成いたしました。さらには、召使たちを集め、軍隊調に檄を飛ばすことまでいたしました……』

『日の名残り』P.109より引用

執事が業務遂行能力を発揮したのは、ゲストを迎える時の対応です。ゲストの持てなしは前述したように計画能力を必要としましたが、執事が直面する「現実」は常に想定外のことが起こりえるものでした。参加者の人数や随行者の数も決まらない、いつ来るかもわからないのです。こうした個別の要望に対する窓口となり、不便を感じさせないように執事は配慮し、現場を動かしました。

一例として、執事スティーブンスの直面した状況を引用します。

私の計画作成作業は、不確実な要素の多さから、困難なものにならざるをえませんでした。たとえば、お客様の人数です。たいへんレベルの高い会議でもあり、出席者は、男性が著名な紳士ばかり十八人、ご婦人がドイツの伯爵夫人と、当事まだベルリンにお住まいだった、あの女傑として有名なエレノア・オースティン夫人のお二人、計二十人に限定されておりました。
 しかし、それぞれが秘書、従者、通訳をお連れになることも考えられ、総勢が何人になるのかはまったく見当がつかず、それを事前に確かめる方法もありませんでした。
 さらに、会議は三日間の予定でしたが、何人かのお客様は会議の数日前にダーリントン・ホール入りし、根回しをしたり、ほかの出席者のムードを保ったりしたいとの意向を示しておられました。しかし、正確なご到着日はいつになるのかは、やはり、まったくわかりませんでした。

『日の名残り』P.108より引用

誰がいつ来るかも、どれだけの人数が来るかもわからない状況で準備できることは、ただ「何があっても対応できるようにする」ことだけです。この対応には執事だけではなく、ハウスキーパー(寝室の管理、リネン、暖炉、お茶や夜の着替え手伝い、陶器類の準備)、コック(ゲストの人数分の材料調達、調理、配膳時間の調整)の協力も不可欠でした。

・使える部屋の数は足りている?
・ゲストの随行者が何人いても間に合う?
・使う部屋の掃除は完璧?
・想定外の人員に提供する食事の準備は?
・数日前に来るゲストの対応は?
・もしも従者を連れてきていなければ、誰が世話をする?

現場での指揮がどれだけ重要であり、また指揮を行う際に生じえるトラブルも想定し、事前に用意した「緊急避難的な計画」を用意する能力は「計画能力」で、臨機応変に対応するのはこの「業務遂行能力」となります。

実在する一流の執事ともなれば、予行演習ともいうべきリハーサルを行い、ゲストの応対に備えました。執事Edwin Leeと、彼の薫陶を受けたCharles Deanは、事前の準備を「演習」することで当日の給仕者の状況や能力確認を行い、不安がある人材を外したり、自身の判断を必要としない部分は現場に権限を委譲しました。(『英国メイドの世界』P.572-573)


■執事に必要な能力 その3.品格、あるいは規律(Self-discipline)

「計画能力」「業務遂行能力」を不可欠としながらも、さらにスティーブンスは「偉大な執事とは何か」という考察を進めます。彼は、「執事たるもの、個人でいる時間を除いて、執事以外の存在であってはなりません」、と言い切ります。どんな無礼に直面しても、どんな危機に遭遇しようとも、執事たる人間は取り乱してはならず、温雅さを保たなければならず、「執事」から外れる行動を絶対にしてはならないと。

それは、自分自身を作り替え、「執事」という役割に同化させる試みでした。

スティーブンスは「執事としての完璧な役割」を求めました。それは「華やかな舞台で目立つこと」ではなく、「どんな事態が起ころうとも、執事として落ち着いて対処すること」です。この価値観を示すエピソードは物語中で幾つも登場します。

ひとつは執事の父が話した「インドで屋敷の中に虎が入ってきても、淡々と銃を手に虎を処置した執事」の寓話。もうひとつが「軍に所属した息子(スティーブンスの兄)を、その無能さゆえに殺した元指揮官が屋敷のゲストに来たとき、恨みがあるにもかかわらず、そして尊敬すべき点をひとつも見出せず救いも無かった中、完璧に執事の義務を果たした父」の話。

そして副執事として呼び寄せた高齢の父が大変な状況にあっても、彼は私心を殺し、仕事に専念し、職務を完遂した自分自身に満足を覚えました。それが本心かはわからないままですが、「品格とは、如何なる状況でも完璧な執事である」ことでした。

自身の感情を抑制し、相手の態度に左右されずに「仕事の完璧さ」を追い求める姿は、ある意味で「主人にとって便利が良い」側面を持ちましたが、労働の中には自らを律する(Self-discipline)中に満足を得る感情も存在します。私が一流の執事だと感じる執事Edwin Leeは、わがままで破天荒な女主人Astor子爵夫人を受け入れ、「結果で示す」道を選びました。

『私は自分の能力を最大限発揮して仕事を行い、私の仕事についてMrs Astorや他の誰かから挑発を受けたとしても、仕事の成果に語らせ、私の仕事を守ることを決めました。時間は私の成功を証明してくれましたが、これは本当に簡単なことではありませんでした』

『GENTLEMEN’S GENTLEMEN』P.111より翻訳引用

執事は仕事によって評価されるべき、相手によって左右されるべきではないとの思いが感じられます。Edwin Leeの姿はスティーブンスと重なります。大勢の人間が働く職場は、「時計細工」「機械の歯車」のようだと言われますが、仕事の成果を出すには「自律」が不可欠でした。執事は自身が正確な歯車として、また周囲の歯車にも同じ正確さを求めて、屋敷を動かしました。


■執事に必要な能力 その4.人材マネジメント

小説『日の名残り』スティーブンスは完璧な執事のモデルを確立しましたが、私が思うに、「人材育成や人材を維持する」力についてあまり光を当てていません。小説を現実と比較して論じるのはフェアではありませんが、『日の名残り』が非常に完成度が高い分、「すべて」に思われるかもしれません。補う意味で、この小説で描かれていない「人材マネジメント」を記します。

私が見る限り、執事スティーブンスは「執事・個人」としての完璧さを求め、スタッフの育成や人材の面での言及が少なく、そこに執事としての優秀さを求めていないように感じられます。たとえば、大勢のゲストが来るパーティーの遂行の際、彼は外部の人材に頼りませんでした。

『私はしばらくの間、外部から助けを借りなければ、この大行事をこなすことは無理ではないかと考えておりましたが、外部から人を入れることは、ゴシップが外部に漏れ出す危険を招くことでもあり、ダーリントン卿がお許しになるまいと思われました。それに私自身にしても、過ちがいちばん起こってほしくないときに、力量も何も未知数の人手に頼らざるを得ないことになります』

『日の名残り』P.108-109より引用

外交的に微妙な問題を扱うパーティーの遂行に部外者の手を借りるのは望ましくなかったかもしれませんが、Astor子爵家に仕えたEdwin Leeや、実在した執事のいくつかの事例を見ると、「外部から手を借りる=力量も何も未知数の人手を家に入れる」ことを必ずしも意味しません。「力量がある外部の人間」もいたからです。

優秀な執事たちは、日頃から「信頼できる外部スタッフ」との関係を作り、手伝ってくれる人間のリストを持ちました。大勢のゲストが臨時で来る場合には手が空いている使用人や元使用人など、縁がある人々から助けを得られました。

もちろん、外部に助けを求めれば、トラブルはつきものです。ヴィクトリア朝末期のフットマン、Frederic Gorstはあるパーティーで、高級な葡萄の盗難事件に遭遇します。この犯人は、宮殿から手伝いに来ていたフットマンでした。使用人マニュアル本でも、『ディナーパーティや舞踏会のアシスタントを呼んだ時は、特に銀器の管理には注意しなさい!』(『DUTIES OF SERVANTS』P.54)と、注意を促しています。

執事Leeにしても、「完全に信用できる使用人」を把握し切れていたわけではなく、デザートのモモをかすめた臨時の手伝いを即座に屋敷から追い出す経験をしました(『GENTLEME’S GENLEMEN』P.146)ので、確かに外部の人間を使うのはリスクがありました。また、スティーブンスの場合、主人の意向もありました。それでも、「外部の人に頼る」「信頼できる人がいる」を、執事は能力次第で確保出来る位置にいました。

もうひとつ、人材について言えば、『日の名残り』は「主人―執事」「執事―ハウスキーパー」を軸にしているので、「執事―部下・同僚スタッフ」への言及が少なくなっています。執事は一緒に働くスタッフにも、気を配りました。執事Edwin Leeは組織で働く大切さと、その強さを知っていました。

『彼はすべての新しく加わったスタッフと努めて話をして、彼らの経歴や経験や能力を見極めて、それと引き換えに、Astor家の歴史や無数のささやかな助言――もしも正しく理解されれば、屋敷で過ごしやすくなる――を与えました。私がたまたまLady Astorの侍女になったときから、私がこの仕事を続けられたのは彼がいたからです。当初、Ladyは強圧的で、私はすっかり参ってしまい、辞める覚悟を決めかけていました。
 彼自身の資質によって、彼は非常に優秀なスタッフを雇い入れ、使い続けるだけではなく、ともに働く仲間として適合させ、屋敷の主人たち家族と同様にスタッフたちを家族にしてくれたのです』

『英国メイドの世界』P.580より引用

執事は決して一人では屋敷の仕事を完遂できません。部下を動かし、他部署と協調して初めて最高の成果を発揮できるのです。執事Eric Horneも屋敷という閉鎖環境に大勢の人間が集まり、どこにも逃げ道がないことを取り上げ、管理職にある人間次第で働きやすさは変わると言いました。(『英国メイドの世界』P.580)

さらに「執事は、新しい執事を育てる」力を持ちました。Edwin Leeをロールモデルとして、Astor家の服執事Charles Deanは、その後、一流の執事となりました。Deanの存在を知るがゆえに、私はこの「人を育てる力」も、執事の能力に含めたいと思います。

スタッフが足りない時には「信頼できる人を集められる」、そしてチームワークの大切さを認識してスタッフの働きやすさを考え、人材を育成することも、「最高の執事」としての条件に加味できるのではないか、というのが本テキストの結論となります。(僕が考えた、最強の執事、みたいな話になってしまいましたが)


■まとめ

私が初めて接した本格的な執事のイメージは『日の名残り』でした。「執事」として伝わる著名なジーブスも厳密に言えば、ヴァレットです。日本における執事イメージの形成はどこかで機会があれば考えてみたいことですが、「主人の傍に仕える優秀な家事使用人」のイメージ、パーソナルなアテンダントという雰囲気が強いように思えます。

しかし、実際に『日の名残り』を読んでいくと、そして実在の執事たちの仕事内容を見ていくと、大きな屋敷に勤める執事は個人に仕える能力以上に、屋敷全体を動かしていく組織の中核にあり、現場を動かし、優秀な人材を維持するべく努めていたことが見えてきます。

小説も映画も素晴らしいので、未読の方は是非。