『歌うたいの黒うさぎ』(石井まゆみ、集英社、2012年)は、主人公の森永永森子(26歳)の勤め先が倒産し、社員寮からの立ち退きを猶予される中で、次の職場を探しつつ秋葉原のメイド喫茶
でアルバイトをしていました。人見知りで無愛想な彼女にとって、店員がツンツンする特殊なこのお店は、素のままでいられる気軽なバイト先でした。
客としてこの店を訪問した青年・紺谷充悟は、自身が勤める屋敷の坊ちゃんを楽しませるため、坊ちゃんの誕生日イベントに来てくれるメイドを探してあちこちのメイド喫茶を訪問し、永森子にも選考への参加を呼びかけます。
選考日に永森子が訪問したのは、本物のメイドや家政婦長がいるお屋敷でした。そこで永森子は、幼くわがままな坊ちゃん・叶かな夢む と偶然出会い、気に入られます。独特の距離感と魅力を持つ永森子は叶夢や充悟だけではなく、叶夢の父の目にも留まり、叶夢の近くで働くメイドにならないかと声をかけられます。
永森子自身、叶夢のことを気に入っているので、メイドになることを決めます。
しかし、そこからが大変でした。面接を受けるには英国メイドのように紹介状(過去の場合は以前の職場からの推薦状、この本では彼女の人物を保証する推薦状)を求められたり、面接を通過した後も寮生活になったりした上、研修期間中は叶夢や主人に会うことが許されませんでした。
さらに、気難しい叶夢や主人たちから気に入られる永森子は、屋敷の若いメイドたちの嫉妬の対象となり、意地悪をされます。家政婦長・南場の厳しさにも接しながら、叶夢を直接世話する専門的な子守メイドのポストを目指し、同僚たちと競争していくことになります。
同作品がユニークなのは、メイドではなかった女性が個人として坊ちゃんに関わってメイド的役割をするうちに、坊ちゃんへの思い入れが芽生え、自分自身の生き方を変えていく点です。3ヶ月間会うのを禁止された時も「私きっと立派なメイドになって坊っちゃまをお迎えにまいります!!」(『歌うたいの黒うさぎ』3巻、p.64)と考えるようになるほどです。
日本を舞台にして「後天的な主従関係」を描く作品では、最も秀逸な作品のひとつでしょう。
「メイドが主題」の作品ではないものの、同じく「一時的なアルバイト」としてメイド喫茶を選んだ作品は『つなぐと星座になるように』(雁須磨子、講談社、2011年)です。この作品のメイド喫茶はアルバイト先のひとつでしかなく、途中で店が潰れると、もうメイドになりません。とはいえ、主人公のアルバイト先としてメイド喫茶が選ばれるようになったのは、メイド喫茶ブーム以前にはなかったことです。
最初のシリーズが『歌うたいの黒うさぎ』で、続刊として『歌うたいの黒兎』が出ています。