英国ヴィクトリア朝に関するテキスト/コラム

『メイドはメイド服で外出したか?』 (2004/01/17)

結論から言うと、「制服で外出」することはありえないはずです。

「自分たちが使用人であると示す制服を嫌がった」可能性が高い点から、メイド個人が自分の意志で「制服で外出」することは無かったはずです。

また、メイドとは「家庭内スタッフ」である以上、その制服は「家庭内に留まる」もので、外出に適していないとも思われます。制服を着ている間の外出も、せいぜい、玄関前の掃除や窓の掃除、お客さんの見送りや馬車の戸を開けるぐらいでしょうか。

「外に出る」ことはあっても、「外出」はしないでしょう。

その上、外を歩いていたら二重の意味で目立ちます。

1:使用人であることの顕示
2:制服という服装の街中での違和感

恥ずかしがる格好をあえて行うとは思えません。(ほんの近所の外出ならば別かもしれませんが……)

前に紹介した「あるメイドの一日を扱った小説」では、魚屋が届け忘れた牡蠣を、メイドが貰いに行くシーンがありました。そこでは「着替えて」出かけています。『エマ』でも、エマは基本的に私服で外出しています。

例外的に、『エマ』の1話目で、ウィリアムに手袋を渡す為にエマが制服のまま追いかけ,その後、一緒に肩を並べて歩くシーンがあります。

これはウィリアムにとって不名誉で、エマにとっても恥ずかしいはずです。メイドの制服は外では非常に目立ち、メイドと歩くそのことがありえたとしても、「制服を着たメイドと歩くことは椿事」と言えます。世間がどのようにふたりを見たことでしょうか。

ただ、『エマ』は「歴史」ではなく、「創作」である以上、リアリティは「絶対条件」ではなく、「人物・物語・場面を面白く描けていればあり」だと考えます。

映画『ゴスフォード・パーク』の1シーンに、「部外者がディナーの準備中のテーブルの上にあったナイフかフォークを手で持つ→執事がその後、『ふん!』という顔で、息を吹きかけて指紋を拭き取る」シーンがあります。

DVDについていたメイキングのインタビューで、監督は「執事をしていて、アドバイスをくれた人は『息を吹きかけるのはありえない』と言ったが、映像・表現として面白いのでそちらを優先した」という内容の話をしていました。

個人的にはこの意見に大賛成です。好きな作家の司馬遼太郎さんや塩野七生さんの歴史を題材にした小説も、根本には人物や物語を書く点にあり、厳密性の追求は学者の範疇だと思います。

また、例にあげた『エマ』のシーンは、決してリアリティが無いわけではありません。まずエマは恥ずかしがって、「一緒にそこまで歩こうと誘う」ウィリアムの申し出を、拒絶しています。(これが制服による恥ずかしさか、誘いそのものへの恥じらいかを考えると、多分、後者と思いますが)

その後、誘われて一緒に歩いていますが、この短いシーンで、「ウィリアムの性格・外聞を気にしないほど、エマに好意を持った」部分(或いはウィリアムという人間の特殊性)が表現されていると、深読みできます。

結論としては最初に書いたように、「まずありえないはず」ですが、「あってもおかしくはない」というものになります。

現代人の感覚からすると制服での外出はいいかもしれませんが、あの制服が家庭内専用だった点からすると、当時の人にとって、制服で外を歩くメイドは「パジャマで歩いている」ように見えたのではないでしょうか。(2005/10/09補足 現代的に言えば、看護士や銀行員等、職場と制服が密接に結びつく職業の方の制服姿を、それ以外の場所で見る時の違和感の方が適切)

以上は論考であって、今のところ、厳密な資料を提示して書いてはいません。

紹介してくださったサイト

電脳メイドしづ子さま
みんみんうぇぶさま

このコラムで扱った内容に関連する記事です

1:あるメイドの1日を扱った資料本
『A DAY IN THE LIFE OF A VICTORIAN DOMESTIC SERVANT』
2: 映画『ゴスフォード・パーク』 3:


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