[参考資料]『どん底の人びと―ロンドン1902』

アメリカ人作家ジャック・ロンドンが1902年にロンドンの貧民街(イースト・エンド)に入り込んだルポルタージュです。19世紀イギリスは上流階級の華々しい世界とわずかな距離を隔てて、著しい貧困が存在しました。その貧困だけではなく、放置する社会を彼は描き出しました。貧困を自己責任とする考え方があり、困窮した人びとの暮らしは放置されました。

ジャック・ロンドンはロンドンに滞在し、貧民街への潜入を試みます。貧民街への潜入を相談された友人は同じロンドンにいながら曖昧にしか分からず、クック旅行社に相談に行ってもその話や、警察とトラブルがあった際の身元保証も断られ、アメリカの領事館でようやく話ができる人物に出会えました。

ジャックは中古で服を買い、紹介してもらった探偵のつてで貧民街に下宿を見つけます。ここからジャックの体験が始まりますが、非常に印象的なのがジャックが服装を変えた際の対応です。ジャックが労働者の格好をすると人びとは露骨に態度を変えます。労働者階級の人々は仲間だとみなし、それより上の人々は目を背けるような。逆に、ジャックが元の姿に戻ると、労働者階級の人々は卑屈になってしまう。そんな、「外見」「身奇麗さ」で人々を判断する、財産で評価されるイギリスの「階級社会」が露骨に伝わってきます。

当時を生きた人々にしか描けない、「もうひとつのロンドン」のシビアな現実は、数多い浮浪者を排除するために行われた法律でした。「夜間、野宿してはいけない」とした法律によって、浮浪者が道端で寝ると警官に追い払われます。公園でも同様です。そのため、慈善団体の簡易宿泊所や救貧院への宿泊が行われますが、全員が入れるわけではなく(数時間待ち)、夜間を歩き通さなければならなかったり、昼間は公園で寝ても咎められないことからロンドンの公園にはさながら死体のように浮浪者が眠りこけていたりしたというのです。(写真あり)当時を再現する「映画」では、絶対に映さない光景でしょう。

労働者階級の人々と行動するジャックは、貧困を放置する人々へ強く憤っていました。何よりも、「それを見ようとしないこと」に。何度も彼は、読者である恵まれた暮らしの人々へ呼びかけています。ジャックが出会った人びとは、機会さえあれば働きたい、というような人々でしたが、高齢による再就職の難しさや、わずかな失敗や不運で再起不能な貧困に陥っています。私は家事使用人を研究する立場ですが、いかに自由時間が少なく長時間労働であろうともメイドの仕事が選ばれたのは、「食事があって、屋根があって眠れる」ことが、スラム街で貧困に陥るよりも圧倒的に安全だったことがあるのだと、再確認しました。

ジャックはルポルタージュで暗部を描き出しましたが、彼は何度か「自分の階級」に戻って、悲惨な現実の中に身を閉じても、浸りきることはできませんでした。また、あとがきで指摘を受けるように、ジャックは途中から新聞記事やデータや伝聞情報などに頼って文章を書き、「自分の目で見る」潜入ルポを止めました。それほど、彼が直面した現実は残酷なものでした。

ロンドンでは、かつて世界中のどこの歴史にも見られなかった驚くべき規模で、幼い子供が大量殺戮されている。そして、同様に驚くべきことは、キリストを神事、神の存在を認め、日曜日にはきちんと教会へ行く人々の冷淡さである。
(『どん底の人びと―ロンドン1902』P.299-300より引用)

最大規模とも言われた売春も、そのほとんどが貧困による困窮によりました。19世紀ヴィクトリア朝、そして華やかな20世紀のエドワード朝以降も含めて、格差社会によって生じる富の集中による華やかな社交界と、深刻な貧困とが同居していた姿を、この本は明らかにしてくれます。

深刻な当時の貧困の姿を知るには、本書は最適の資料です。

なお、ジャック・ロンドンの『どん底の人びと』に続き、イギリスの作家ジョージ・オーウェルは1927年からの3年間の貧困な生活を、同じくルポルタージュとしました。ジャックと違い、オーウェルはその中に身を浸し、独自の視点で描き出しました。余談ですが、ジャック・ロンドンはエドワード7世の即位式典を、明治のジャーナリスト長谷川如是閑は同国王の葬儀を、それぞれルポに書き残しました。

以下、目次

【注:冒頭は体験談中心】
序文
一:奈落で暮らし出す
二:ジョニー・アプライト
三:私の下宿のことなど
四:どん底とある男
五:瀬戸際の人びと
六:フライパン横町と地獄
七:ヴィクトリア十字勲章受章者
八:荷馬車屋と大工
九:浮浪者収容所
十::「旗をかつぐ」
十一:給食所
十二:戴冠式の日
十三:波止場人夫ダン・カレン
十四:ホップとホップ摘み人夫
【注:以下、考察・伝聞の比重が増えていく】
十五:水夫の母
十六:「財産」対「人間」
十七:非能率
十八:賃金
十九:ゲットー
二〇:喫茶店と安宿
二一:不安定な生活
二二:自殺
二三:子供
二四:夜の光景
二五:飢えの嘆き
二六:飲酒と禁酒と節約
二七:管理運営

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