制作日記


2003/02/13(木)

『8人の女たち』を見てきました。

前売り券を買っていたものの、渋谷まで出るのが億劫でしたが、今週末で上映が終わりそうということで行きました。同じ時期に『ゴスフォード・パーク』があり、どこかで予告編を見て、同じような筋立て(屋敷で、当主の殺人事件・メイドさんもいる)だったこともあり、間隔をあけなければと、思っていました。

話そのものはタイトルが示すように、8人の女性を主人公として、登場人物はそれだけに『殺されるマルセル』です。マルセル、その妻、留学中の長女、屋敷にいる次女、妻の妹、マルセルの妻の母、コック、メイド、そしてマルセルの妹と、8人が集まります。

その過程で殺人事件が起き、身内からの犯人探しが始まる、というものなのですが、これが久々に「映画として面白い」ものでした。

まず女優が綺麗であること、衣装も映えており、1950年代という時代性が出ていました。ミュージカル仕立て、というのでしょうが、唐突に歌が入り、女優が踊りだし、「女優のカメラ目線」「カメラの構図も舞台らしく」正面から広く映すなど、見ていて面白いのです。そのダンスも衣装が鮮やかに見えるように、計算されています。

最初はどうしたものかと苦笑しながら見ていた舞台展開ですが、もしかすると、「一緒に踊っていない人の視点」も多用していたかもしれません。結構、不思議な「画面割り」だったので。

犯人探しの過程で、アリバイを確かめるうちに、次々に皆が他者の秘密や暗部を暴露していき、それが果たして真実かの検証もなされぬまま(クリスティ小説ですとあるひとりしか握っていない情報、それも相手から話してくれる情報は偏向しており、その話本人が犯人ということが多いですが)、定まらない方向性を描き出します。

犯人探しよりも、自分以外を犯人だと思う傷つけあう弱さが出ていて、情報が錯綜していきます。結末も見事で、トリック全盛の世界において、使い古されたかもしれませんが、(クリスティへのオマージュという点では、確かに彼女の名作にあった方法を使っています)秀逸でした。

小説も出ているそうですが、そちらは読んでいません。amazonの書評を見ると映画よりも面白いそうですが、話の筋立てより、舞台や映像への興味が強いので、小説よりも、屋敷の図や衣装が出ているという写真集を買ってみようと思います。
屋敷物や使用人物としては、やや現代的ですし、あまり広い空間を感じませんでしたが、肝心のメイドさんは今までに無いタイプで、よかったです。あぁいう「強い」人も書いてみたいですね。

『美しき諍女』を演じた女優(確か上映当時はヘアがどうのこうので揉めていたと思います)だそうで、とても優艶な人でした。気の強さ、非従順というものが出ており、黒いハイヒールを履いていたのが、彼女がただのメイドではないと暗示しています。

衣装は黒を基調として白が見え、ゴシック・ロリータ?なんでしょうか。襟元や袖の白いカラーを外すシーンや、「娼婦」ぶりを見せるダンスのシーンでは整えていた髪が乱れ、色気がこれでもかというぐらい出ていました。

主人公らしい長女は「オードリー・ヘップバーン」を意識した衣装ということでしたが、この長女とメイドさんのスカートは、19世紀的で、好みでしたし、見せ方も良かったです。

国が違えば見せ方も違うなぁと、『ゴスフォード・パーク』との対比で見ると、フランスとイギリスの違いが見える、かもしれませんね。初めて見るならば圧倒的に映画として面白いこちらをお勧めしますが、「カントリーハウス物」としては、『ゴスフォードパーク』の質が高いです。

もっとも、映画作成の方法論やコンセプトが違う、「畑違い」のふたつを比較するのが間違っています。『ゴスフォードパーク』は屋敷や使用人、貴族の暮らしにスポットを当て、当時の価値観を再現したドラマですが、『8人の女たち』はあくまでも屋敷は舞台に過ぎず、女性の魅力や、極限状態での暴露される人間の怖さを追求した感じがします。

世界の面白さと、映像の面白さ、筋立ての面白さ、どちらももう一度見たい作品です。

尚、パンフレットにはハイヒールを履いたメイドさんのモデルとなった映画があると書かれていました。この映画監督は過去の映画へのオマージュとしての作品が好きで、そうした遊びがこの映画を形作っているようです。

その映画はジャンヌ・モロー主演の『小間使いの日記』というタイトルで、amazonを見たら、載っていたので、これも買ってみようと思います。

一概にヴィクトリア朝へ還元できませんが、フランスというと鹿島茂氏の著作が多くありますし、フランスの『失われたときを求めて』では、セレスト(天空のよう)という名のメイドが出てきた記憶が。いつか、この『失われたときを求めて』の読書感想文を書きます…あれを読んでいる時間はすさまじいものがありました。

知識つながりで行くと、『失われたときを求めて』を映画化した際、出演していたのが、『8人の女たち』でメイドさんを演じたエマニュエル・ベアールでした。まだこの映画を見ていませんが(確か日本では単館上映)、amazonによると、男の主演は…ジョン・マルコヴィッチでした。衣装も凝っているそうで、また見たいものが増えました。


2003/02/09(日)

『久々の更新です』、が枕詞と化していますね。

この1ヶ月、昨年日記でちょこっとふれたオリジナルの方がようやくまとまり(というかいろいろな物を切り捨てて、時間を確保して)、その整理と校正をしていました。二年越しになり、広がりすぎ、自分の中でキャラクターが動いて、今でもふとネタを思いつくのですが、やはり長いと、作っていて大変でした。

しばらく短編で話の作り方を勉強し直そうと、思っています。なので最近は主に短編集(もしくは薄い本)を中心に、読んでいます。「星新一」を読めという声もありそうですが、時代背景のある英国やアメリカ、ヨーロッパの話が好きなので…

・ダブリン市民(ジョイス)   19〜20世紀初頭アイルランド
・若き芸術家の肖像(ジョイス) 
・O.ヘンリ短編集(1〜3)   19世紀アメリカ
・チップス先生さようなら    20世紀初頭イギリス
・絵の無い絵本(アンデルセン) 
・アンダーソン短編集      19世紀アメリカ
・王妃の離婚(佐藤賢一)    

『王妃の離婚』は短編集ではなく、たまたま古本屋で見つけて、安かったので買いました。佐藤賢一さんの本は後輩から前に借りて、好きな文体と時代、描写でしたが、関心はあるものの、熱心なファンではないというレベルです。

読書において「偶然手にとる・偶然名前を知る」を重視しているので、今回は買いました。これは中世(ルイ12世、チェーザレ・ボルジアの頃)の「王による王妃への離婚」に関する「裁判物」で、ロジックな面白さと、生々しい光景の描写が良かったです。

安易な殺人事件や密室より、話の構築が緻密な裁判物は大好きです。過去に、TRPGで裁判物の「ライブRPG」に参加したことがありますが、あれも面白かったですね。

話は戻りますが、短編を読んで思ったのが、種類は二系統にわかれるのかなと。

話の流れ、起承転結の意外性で読ませるのが「O.ヘンリ」で、「賢者の贈り物(奥さんは旦那の、旦那は奥さんのプレゼントを買う話)」「最後の一枚(あの最後の一枚の葉が落ちると…という話のタイトルだったと思います)」などでわかるように、この人の話は研ぎ澄まされて、伏線が短いながらもあり、最後に綺麗に落ちます。名前や描写、文章の癖を知らなくても、話の筋だけは心に残ります。

一方、ジョイスの『ダブリン市民』は「これで話が終わるの?」という形で終わったり、「起承転結」が崩壊したものが多いです。それはそれで「この話はどう終わるのだろう? 次で終わってないよね?」との変な緊張感も生みましたが、人物描写や情景描写が濃密です。

アンデルセンの『絵の無い絵本』は、若い絵描きが、月の語る物語を絵にする、という話で、月の話は「月が見たもの」で、情景描写が多く、必ずしも起承転結が成立しません。それでも余分な描写が無く、言語が研ぎ澄まされている感じで、綺麗な世界を描いていたと思います。

これらは当時の風景や世界、或いは空想を生き生きと描き出して、その場にいる雰囲気を作り出しているように思えます。

短編の名手と呼ばれる作家は、前者のO.ヘンリ型で(奇想天外なストーリーというのでは日本のショート・ショートもそうでしょう)、自分が『ヴィクトリア朝の暮らし』で書いているものは、後者の「生活や風景の描写」になるのでしょうか。

自分はタイプ的に後者ですが、レベルがまだまだなので、読者にとって風景が目新しいうちはいいものの、話の構成そのものは陳腐化しやすく、書いているうちに「物語」ではなく「描写・説明・設定」になりかねないです。

目的そのものが暮らしの再現なので、別に問題は無いのですが、いろいろな角度からの描写の方がいいと思うので、幅を広げたいですね。

自分の文章やスタイルは「ストーリー」「読者を驚かせるところ」などの引き込む力が弱いというか、あんまり無いです。ぽんぽんと切れのあるストーリーが浮かぶはずも無く…と諦めず、そういう意識で短編に集中していようと考えました。

あとはオリジナルですが、「結末のある話」を、読みたくなりました。自分で書くと長くなって、冗長になって、アイデアを全部盛り込もうとして、濃淡が激しく、完結しないままになってしまうものが多いです。短編で、出来る限り、余分な描写を減らし、書く速度・完結する力を磨くつもりです。

話としての引き込む力が強すぎると、「一度読んだらもういいや」という面もあり(アイデア勝負のミステリ小説がそれですね…秘密を知りたい欲求がストーリーを運ぶものの、二度と読みたいと思えるものは少ないです)ますが、そういう話も書いてみたいです。

「無いものをあるかのように再現する描写」と「会話の面白さ」、「ストーリーの伏線とその結末の意外性」すべてが揃うのを理想としますが、最低限、読んでくれた人が不快にならず、喜べる文章でありたいものです。

2月からは短編の執筆を志します。しばらくこちらの作業は出来そうも無いです。夏コミは申し込みましたが、私事でも忙しく、既刊の再編集が最低限のラインです。短編の進捗具合で、新刊の動向が決まると思いますが、その辺はネットに状況を書きます。

短編は現代物と、『ヴィクトリア朝の暮らし』の時代背景を使ったファンタジー(?)を書くつもりです。

とりあえず近況はそんな感じです。


2003/01/07(火)

『ヴィクトリア朝の暮らし』は本文や構成、デザイン(というほどたいしたものでもないのですが)をすべて久我がひとりでやっています。イラストは大学の後輩である蓮深さんにお願いしています。久我の元に集めている資料のうち、ビジュアルが多い物を蓮深さんに渡していますが、1巻はそれほど多くは無く、2巻からは雰囲気も、充実してきたと思います。

だいたいレイアウトや人物構成はこちらで場面を想定して、書けていれば小説部分を、書けていなければ情景描写を渡しています。しかし今回、予想していなかった絵が登場しました。かなり度肝を抜かれて目を疑ったのは、ハウスキーパーのアメリアでした。

何度も見直しましたが、1巻と比較して、あまりにもな大きさです。爆乳です。年が明けましたが、いまだに蓮深さんにその理由を聞いていません。

さて、冬休み中は今まで買った資料を読み直していました。新しい資料はあまり必要が無いぐらいに開拓していますし、完全に消化しきれていないので、今までの資料の読み込みに費やしました。といっても、amazonの買い物篭に入れっぱなしで年を越したのもあったので、必要そうなものを適当に入手しましたが。

冬に読んでいた英書は『Country House Children』、英国のNational Trust刊行の貴族や上流階級の、お屋敷に住む子供たちに焦点を当てたもので、『小公子』ぐらいしか参考文献が無い現状、次期公爵であるジョアンを描くのに、必要なものです。

どちらかというとお金持ちの子供の、幼年期の過ごし方は、大地主で家庭教師もいたトルストイに求めるべきかもしれませんが、ロシアですし…今のところ、前半部を読み直しています。家族と子供の関わりの多様さ、死生観、日々の過ごし方、勉強についてなどです。最近は貴族の娘たちを扱った『VICTORIAN GIRLS』を入手したので、その部分で、ジョアンの従姉になるシャハ(2巻登場予定でしたが、3巻になりました)の参考にしようかと。

とはいえ、やはり英書は読み下す速度があまりにも遅く、気分が乗らないので、日本語に戻りました。原点回帰の『路地裏の大英帝国』は文庫版で去年ぐらいから再版されている名著です。使用人の章ではお仕着せの話や、言及が少ない男性使用人と使用人税、そして女性使用人増加の部分を説明しています。そして、『THE RISE AND FALL OF THE VICTORIAN SERVANT』を巻末の参考文献にあげていたのも、この本でした。

産業革命全体の話では、『世界生活の歴史』が文庫本で、お手ごろです。世界史を専攻せず、日本史のみだった自分にとって、概要を把握するのに役立ちます。特に蒸気機関や、石炭の部分は目が開かれた思いです。

新刊に向けて構想を練っていますが、なかなかエピソードが難しいものです。ちゃんと読み直せばネタは幾らでもあると思うのですが、方向性だけ決めて、ゆっくり孵化するのを待とうと思います。

法政大学刊行の『台所の文化史』も、紹介状にまつわるエピソードがありましたし、どれだけ今ある豊富な素材からネタを掘り出し、あたため、育てられるか。話そのものは不意に降ってくることがあるので、まずは知識だけで書ける解説パートの構成を作り始めます。

ジョアン関係の話も全然進んでいませんが、シャハの登場で加速するはず…です。


2003/01/01(水)

あけましておめでとうございます。

新年早々、家の整理をしていたら、既刊の在庫が出てきました。全体の冊数で残りが20部、蓮深さんのところにあるのが10部程度と、再発行するには微妙かもしれませんが、夏コミはコミケの委託にも出そうと思うので、刷ってもいいかもしれません。当日、買おうとして買えなかった方々には、申し訳ないことをしました。

さて、昨日は大晦日にも関わらず、本屋で、美樹本晴彦氏の『ガンダム』と、森薫という人の『エマ』、この2冊のマンガを買いました。マクロスファンなので、美樹本氏の画集を買ったり、マンガを買ったりしていますが、どうもコミックスの方は微妙で好きではないのですが、今回は原作つきで、読ませる構成でした。

もうひとつの『エマ』は、『Zガンダム』のエマさんではなく、ジェーン・オースティンの『エマ』でもなく、エンターブレイン(ファミ通?)から刊行された、珍しくしっかりしたつくりの『メイドさんもの』でした。

舞台設定も19世紀英国、ヴィクトリア朝を舞台に、上流階級の子息が、昔世話になったガヴァネスの家を訪問し、そこの家で働くメイドのエマに恋をして、淡い感じの相思相愛になるものの、身分が邪魔をするといった話です。

正統な作りで、絵も読者に媚びず、どちらかというと『アフタヌーン』や『モーニング』など、講談社の一部の「ストイックな作風」のコミックのような感じもします。話が面白く、絵もストーリーにあっていて、随所に「作者さんがメイドさんを好きなんだな〜」という描写もあります。

それでいて、メイドさんだけが主人公というわけでもなく、社交界にデビューしたての少女が、そこで出会った主人公に好感を抱き、それが「エマ(メイド)」「主人公(上流階級)」の間に波風を立てます(多分)。

気の弱い主人公が怖い父親や世間の目とどのように戦っていくのか、「メイドさんと結婚=自分の地位を捨てる」のか、「身分が同じ娘と結婚」なのか、結末を期待させる内容です。

上流階級の息子で、親が厳しいという設定は、年末に見た『バジル』という映画にもありました。この映画では長男が牧師の娘を恋愛の末に妊娠させ、身分違いで「不道徳」な行いから、父の不興を買い、荒れた領地へ放逐されます。娘は未婚のまま子を宿し、家族は揃って村から除け者にされ、娘はひとりで出産し、子供と一緒に産褥の中で死にます。

次男である主人公は、兄の失敗を見ていたものの、命を助けてくれたことで友人となった男を介して、商人階級の娘に恋をします。結婚の約束をして、屋敷を譲るとも言い、父に内緒で結婚します。主人公は結婚を隠したものの、結果的にそれはばれてしまい、同じように父に捨てられ、肉体労働者として生きなければならなくなりました。

財産を相続して自立した財源を得るまで、将来の後継者といえども、父親の意向に逆らえないのです。主人公は勤務経験も無く、彼にふさわしい職場に面接に行っても、その会社は名士である彼の父に睨まれたくないので、拒否しますし、父に謝罪することを勧めていました。

日本の戦国時代末期、後藤又兵衛が黒田家当主を見限り、出奔した際、黒田家は「彼を雇ったならばそれは、当家と事を構える」と大名家に通達して、ついに後藤又兵衛は大名家に仕えられず、浪人しました。

『エマ』の場合も、主人公がエマと結婚するといえば、父親は息子を勘当するでしょう。甘いお坊ちゃんである主人公です。インドの王族である友人の助けが期待できるので(彼も恋敵ですが)、落ちぶれることは無いと思いますが、それでもメイドを選べば、転落が待っています。

どのように終わるにせよ、かなり忠実に「価値観」を再現しており、これからの筋立てがとても楽しみな作品です。

そういえば厳密なメイドさんものではないのですが、独特の世界観と絵が大好きな作品で、『メルクリウスプリティ』があります。電撃から出ている、西野司さんのマンガです。

中村博文氏が絵を描いた育成系のゲームを原作にしたこの作品、背景世界はオリジナルですが、いわゆる近代的ヨーロッパをモデルとして、主人公の女の子も、孤児院から恩人の家に出向き、メイドとして働き始めます。こちらの本は西野さんの絵が大好きなので買ったのですが、雰囲気は参考にはなると思います。

『エマ』唯一の不満は、参考文献を書いていないことでしょうか。


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